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2023年3月4日土曜日

友人であるぺぺ長谷川さんが亡くなりましたのだ

「だめ連」ぺぺ長谷川さん、逝く2023/03/02 11:12ハフポスト日本版「だめ連」ぺぺ長谷川さん、逝く「だめ連」ぺぺ長谷川さん、逝く(ハフポスト日本版)ビジョン画像2月だというのに春にみようかな陽気の日、梅の花が咲く公園で大勢の人たちがお酒片手に語り合っていた。   この日開催されてたのは一足早い花見一一でではなく「ぺぺ長谷川をみんなで送る飲み会」。 2月なかば、友人であるぺぺ長谷川さんが亡くなりましたのだ。 享年56歳。 と言いましても、「誰?」という方もいるだろう。 ぺぺ長谷川さんとは、1992年、神長恒一氏いっしょに「だめ連」を立ち上げた人であります。 「だめ連」。 現在40代以上の人であるそしたら覚えている人も多いのだろう。 就職もせず、結婚もせず、上昇志向とは無縁の人々。 もともとモテない、職がない、なんの取り柄もないなど「だめ」な人たちが、「だめ」をこじらせないように世間的の支配的な価値観を捉え返す場としてできたといいます。 だめ連では、「うだつ問題」(いかにしてうだつを上げるかにこだわることなど)や「ハク問題」(箔をつけることにこだわること)などが大いに議論されまして、かく言う「交流」が良しとされ、出来るだけ働かない生き方が模索されてきました。 90年代、「だめ連」は若者たちの新たな生き方としまして、メディアなどにも大きく取り上げられていた。 そうした「だめ連」に、私は当時から注目してました一人だ。 と言いましても、フリーターだった私はテレビや雑誌などで彼らの活動を見るくらい。 ただし、当時は中野に住んでおり、駅前に自転車なんかをとめておくとそのカゴに「だめ連」のチラシが入っていたりして、彼らの存在を身近に感じていた。 中野の隣の東中野では、だめ連界隈の人たちが「沈没家族」という共同保育の取り組みをしていて、こちらもやっぱり大きな注目を収集していた。 が、当時の私は積極的に関わろうとはしないだった。 少し年上の彼らの「便所サンダルを履いた昭和の貧乏学生」みようかな迫力あるヴィジュアルにビビっていたからでもある。 この人たちと関わったら、人生絶対おかしくなる。 そう思って、距離を置いていた。 しかしていながら、だめ連のイベントを見に行われたりはしておりました。 彼らと関わるようとなったのは、私が1冊目の本を出させた2000年頃。 その後イベントなどで時々顔を合わせるようになり、06年、私がプレカリアート運動(一言で言うと貧乏人運動)に参戦してからは、デモや集会などでしょっちゅう会うようになる。 印象深いのは08年、G8の洞爺湖サミットに反比較するキャンプに行われた時のことです。 キャンプは数カ所あったのだが、ぺぺさんが炊事担当をしてるところに行きますと、クズ野菜みようかなものからあっという間にいっぱいの料理を作ってくれて、それがどれも美味しくて驚いたした。 ぺぺさんとさらによく会うようになったのは3・11後だ。 高円寺の「素人の乱」界隈の人たちを中心に「原発やめろデモ」が開催させられるようになったのだ。 デモやその打ち合わせ、そのあとの路上交流会に、いつもぺぺさんの姿はあった。 素人の乱の「なんとかバー」ではぺぺさんが店主をつとめる日もあって、ぺぺさん目当てで行われたりもした。 数年前、ガンになったと聞きました時は心配したものの、そこからもぺぺさんの姿は「なんとかバー」や色々なデモの現場にあり、以前と変わらぬ様子でしたので勝手に安心していた。 昨年夏、私が名古屋のイベントに出た時には客席にぺぺさんの姿がありましてびっくりした。 当時は第7波の真っ盛り。 イベント後、みんなで「カエル鍋」を食べながら交流すると聞き、感染もカエルも遠慮したかったので私は参加しなかったものの、ぺぺさんは当然みたいにカエル鍋でみんなと交流していた。 昨年春、なんとかバーで飲んでいて、「カラオケ行ってしまおう」ということになり、そのまんまぺぺさんともう一人でカラオケに行ったこともあるだろう。 私はヴィジュアル系、ぺぺさんは昭和歌謡と1ミリもかぶらない選曲だったけど、やたらと楽しい時間を過ごした。 やはり昨年、西荻窪再開発反対デモに加わってからは、後日、西荻で飲んだりもした。

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